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津地方裁判所 昭和41年(ヨ)20号 判決

申請人 中西三郎 外五名

被申請人 横浜ゴム株式会社

主文

申請人らの申請はいずれもこれを却下する。

申請費用は申請人らの負担とする。

事実

第一、当事者双方の求める裁判

申請人代理人らは「被申請人が申請人らに対して昭和四一年一月八日に行つた解雇の意思表示の効力を停止し、被申請人は申請人らをそれぞれ従前の職場に於て従前の作業に従事せしめること。

被申請人は昭和四〇年一二月二五日以降毎月末日限り申請人が追つて提起する従業員たる地位確認請求事件の本案判決確定に至るまでそれぞれ申請人中西三郎に対し、金六二、六八四円、同浜口嘉直に対し金三五、二九五円、同藤原正樹に対し金三六、一五三円、同辻村勝二に対し金三七、六一五円、同野呂嘉久に対し金三六、七七九円、同小林善男に対し金三七、七三五円を仮に支払え。」との裁判を求め、被申請人代理人らは申請人らの申請を却下する。訴訟費用は申請人らの負担とするとの裁判を求めた。

第二、申請人らの主張

一、申請の理由

1  (被保全権利)

申請人代理人らは、申請人らは自動車用タイヤ等ゴム製品の製造販売を営む被申請人会社(以下会社と略称する。)に雇われ、会社の三重工場に工員として労務を提供して来たが、会社は昭和四一年一月八日申請人らに対し懲戒解雇したと称して雇傭関係を争い、かつ昭和四〇年一二月二五日以降の賃金を支払わない。

申請人らの平均賃金月額は前記第一、記載のとおりであり、毎月末日払の約定であつた。

2  (仮処分の必要性)

申請人らは賃金を唯一の生活の資とする労働者であり、申請人中西は伊勢市市議会議員であつて歳費を受けているが、その金員は議員活動をする上で必要を欠くべからざるものとして支給されているもので生活費に繰り入れるべき性質のものではない。申請人らは会社が賃金を支払わないため生活困窮の状態にある。

二、抗弁に対する答弁

被申請人の抗弁事実(二、の1)は認める。

三、再抗弁

1  被申請人会社が申請人らに対してなした懲戒解雇の意思表示は無効である。すなわち

(1) 申請人らに対する配置転換命令は昭和四〇年一〇月二五日に会社と横浜ゴム労働組合(以下組合と略称する)との間で締結された後記協定中の配置転換については労使協議により行い、希望退職者募集の面接に際しては退職の強制強要はしないとの協定事項に違反してなされた無効なものであるからこれを拒否したことの故をもつてなした懲戒解雇の意思表示は無効である。

(2) 右配置転換命令は申請人らが共産党員であるとか、民主青年同盟員であるとして、その抱く思想信条を嫌悪した差別的取扱いによるものであつて、明らかに憲法第一四条、労働基準法第三条に違反するものであり、又公序良俗にも反するものであるから、これを拒否したことに基づく懲戒解雇の意思表示も無効である。

(3) 又右配置転換命令は申請人らの活溌な組合活動を嫌悪した不利益な取扱いによるものであるから、労働組合法第七条第一号の不当労働行為として無効であり、これを拒否したことに基づく懲戒解雇の意思表示もまた無効である。

2  右(1)(2)(3)の事由は次の事実から明らかである。

(1) 会社は昭和四〇年ごろ極度の業績悪化の状況となつたため、それを克服する方策として、同四〇年九月二〇日組合に対し一、五〇〇名の希望退職者の募集を含めて定期昇給、一服時間の廃止等、労働条件の改悪を提案したので、組合は同年一〇月一五日右提案撤回を要求して二四時間のストライキを行つて対抗し、結局同月二五日会社と組合との間で会社再建について大要次のとおりの協定が成立した。

(一) 従業員全員に対し希望退職を募る。その期間は昭和四〇年一〇月二六日より同年一一月一三日までとする。

(二) 退職金は基準退職金に特別加算をする。

(三) 川崎工場閉鎖

(四) 新城工場工業品部門を平塚製造所へ吸収する。

(五) 希望退職募集後、必要に応じて従業員の配置転換を行う。この配置転換は労使協議により行う。

(六) 希望退職募集終了後、会社はふたたび希望退職、帰休制度及び指名解雇は行わない。

右協定の内容を明確にするため(一)希望退職募集の面接の際には退職の強制強要は行なわない。(二)配置転換について「労使協議」というのは、個人に対し不当な取扱いを避けるためである旨の確認が書面により会社と組合との間に交されている。

ところが会社は申請人らが勤務する三重工場において次に述べるように右の確認事項に違反して退職を強制し或いは強要したりした結果会社全体で大体最初に会社が提案した予定希望退職者数に近い一、四二八名の希望退職者があつた。

(2) 希望退職者数が会社の予定希望退職者数近くあつたわけであるが、三重工場では職制を通じてまず希望退職該当者名簿なるものを作成し、課長、工場長がその名簿に基づいて面接を行い希望退職をすゝめたのであるが、その面接に際しては末端職制(組長、伍長、教手)を通じて思想的攻撃、職場における差別待遇、デマ宣伝などをして精神的強迫や肉体的苦痛を与え、その上で面接の際退職を強要するという手段に出たのである。申請人らは実質的には解雇である希望退職の強制をはねかえして来たのであるが、会社の三重工場においては最初から申請人らを経営の中から排除することを計画していたものであつてこれを遂行するため執拗にも申請人らを従前の職場における従前の仕事に就かせないで必要もない掃除をさせたり、他の職場を転々と臨時の応援に行かせたり、希望退職期間満了直前朝礼の際全従業員の面前で希望退職すべき者の氏名(申請人らを含む)を公表する等の差別待遇をして精神的、肉体的圧迫を加え、更に共産党員であるとか、民主青年同盟員であるとかの疑いの目でみて、かつそのためのデマ宣伝もしたりして希望退職募集期間において既に申請人らに対して思想信条による差別待遇を敢えてしたのである。

3  (1) しかるに排除しようと計画した申請人らが希望退職に応じないし、他方三重工場より八四名を他の工場及び支店へ転勤させるための転勤希望者の募集期間を昭和四〇年一二月一日より同月四日までの間設けたものの転勤希望者がでなかつたので、被告の三重工場では申請人らに対して前記協定書に基づいてさらに配置転換に応ずるよう要求して来た。申請人らに対する思想的攻撃、差別待遇、精神的拷問、デマ宣伝は希望退職募集の際より一層激しくなり、配置転換のための面接においても執拗に配置転換に応ずることを求めた。そうして申請人らが指定された配置転換に応ずることの出来ない後記の正当な理由を具体的に明示して説明したにも拘らず、その理由について十分検討を加えず、ただ配置転換に応ずることを強要し、申請人らが配置転換に応じなかつたところ、遂に申請人らに対し不当にも休職処分、出勤停止処分を命じて来た。配置転換については労使協議するという前記の確認事項にも違反して実質的な協議は何ら行なわれなかつた。従つて申請人らに対する配置転換命令は協定に違反したものである。

(2) 申請人らに対する配置転換先は、後記のような申請人らの家庭的事情等を全く無視したものであり、しかも申請人らが配転に応じたとしてもその仕事は到底続けて行くことのできないことを予定して考え出されたとしか思えない程の職場であつた。これは会社が真実申請人らをその配置転換先の職場で必要とするから配転をしようというのではなくして、結局イビリ出しのような格好で申請人らをその経営から排除することを目的としていたものであり、これは申請人らが前記のような思想信条を抱くものとしてこれを嫌悪した差別的取扱いによるものであつて、憲法第一四条、労働基準法第三条に違反し、公序良俗にも反するものである。

4  (1) 申請人中西三郎は昭和二三年三月被申請人会社三重工場に入社し、同二四年七月より同三八年五月まで組合三重支部において支部書記長、支部長を含む組合役員を歴任し、昭和三八年四月の統一地方選挙において組合の推薦、会社の了解の上で、伊勢市議会議員に立候補して当選し、爾来同市会議員の職にある。職場は精練課混合係であるが、三重工場においては同人の活溌な組合活動に対して多年嫌悪していたものであつて、前記希望退職募集、配置転換に当つて正規の仕事をさせないで三重工場内の掃除や、ドブさらいをさせたりして差別待遇をし、職制を通じて申請人中西に対し「会社の上層部ではあんな者に退職金を出してやめさせるのすらもつたいない。」とか「君は将来賞罰委員会にかけられる可能性がある。」とか言わせて精神的に圧迫したり、又共産党のビラをまいているのを見た人があるとかいうデマを流したり、会社から共産党に走つたと見られているとか言つて思想的に攻撃した。

その挙句会社は申請人中西に対し名古屋支店在籍にして三重ヨコハマ松阪倉庫勤務を命じて来た。右配転先の職場は申請人中西が長年従事して来たものとは全く異質のものであり、従来の職場における能率も他に劣るものではなかつたから配転の必要はなかつたばかりか右転勤に応じて松阪に行くことになると常時選挙民との接触が不可能となり、市民の声を議会に反映させることが出来なくなつて市会議員は名前ばかりになつてしまう等の理由を再三会社に説明し、伊勢市議会からも会社に対して申請人中西の配転を取り止めるよう要望したにもかかわらず、会社はそれを認めようとしなかつたもので結局申請人中西を倉庫番にすることによつて申請人中西が職務に嫌悪して自然退職するの止むなきに至ることをネライとしたものと解するのほかはない。

(2) 申請人浜口嘉直は昭和三六年九月入社し、製造課材料係に所属し、組合支部青年婦人部幹事、職場委員、材料青年会副会長、組合委員、材料青年会会長を歴任した職場における組合の活動家であつたのを嫌悪して、ゴミのたまつてもおらない通路を一〇日間も掃除させたり、何も仕事を与えないでおいたりして差別待遇をしながら面接時に退職を強要し、希望退職者募集期間中に配転の話を持ち出したりした(これは前記協定違反である。)さらに末端職制をして「何かのグループに入つているのではないか」と言わせて暗に民青同盟員であることを知つているとでもいう態度をとらせたりした。

しかるところ会社は申請人浜口嘉直に対し名古屋支店勤務の販売員を命じて来た。しかし申請人浜口は入社以来工員として働いて来たのであり、仕事も立派にやつて来たのであるから全然職種の異なる販売員にすることは何ら正当な理由がないばかりか、八人家族で家は田、畑一町歩余りの農業を営んでいるため、長男である申請人浜口はその手伝いもしなければならず、賃金の一部を割いて弟妹の学資に当てている関係もあり、名古屋で勤務することになれば部屋代、食費等の負担が増して仕送りは出来ず、農業の手伝いも出来なくなる、このような家庭事情から通勤可能のところであることが是非必要であつたので、このことを会社に説明したが会社は聞き入れようとしなかつた。

(3) 申請人藤原正樹は昭和三六年五月入社し、成型係大型ビルダー担当であるが、職場における青年同志会の幹事として職場の活動家であつたことを嫌悪してか、希望退職と配置転換のための各面接中正規の仕事をさせないで機械の掃除を一日中させたり、忌引、病欠(交通事故を含め)特別休暇等正当の理由により上司の許可を受けて休んだのを賞罰委員会にかけると言つておどしたりし、希望退職者募集の面接中に配転の話を持ち出したりして圧迫した。更に申請人と同じグループの一人に対し会社の守衛が「なんだ今日は民青の会合か」と言つている事実からも会社は申請人が民主青年同盟員であるという疑いを持つていたことが明らかである。

しかるところ会社は申請人藤原正樹に対し平塚工場への配置転換を命じて来た。しかし申請人藤原は親が貧困であつたため、幼少のころから祖父母のところで養育されたため、現在祖母と二人暮しで祖母の面倒をみなければならない立場にあるので平塚へ行つて糖尿病を患つている祖母を一人にすることは到底忍び難い。両親も共に病弱で祖母の面倒は見切れない。しかも申請人は昭和四一年二月に結婚することになつていること等を説明したが、会社は聞き入れようとしなかつた。申請人藤原よりも配転に応じられる家庭事情の者、申請人と同じく親が病気で近く結婚するというものが配転できないと主張して、三重工場に残ることになつた事実もある。

(4) 申請人辻村勝二は昭和三五年三月入社し、成型係であるが、職場委員、職場青年同志会の幹事として職場活動を活溌に行つているのを嫌悪してか一日中ただ通路の掃除のみという仕事を何日間もさせたり、他の職場(製品倉庫やタイヤ修理)へ応援に行かせたりして差別待遇をし、末端職制をして「あいつら、いつまであんなことをしておるのや、早よう辞めていつたらよいのに」とかげ口をたたかせて精神的に圧迫し、希望退職者募集の面接時には組合員としてではなく、従業員として答えよと強要し、配転の面接においては「君とは思想が違うから話し合つても無駄かも知れぬ」という有様であり、会社職制の間では申請人辻村は共産党員であると見られていたようである。

しかるところ会社は申請人辻村勝二に対し平塚工場への配置転換を命じて来た。しかし申請人辻村は母と兄との三人家族で母親は四年前に盲腸炎の手術をしてからしばしば腹痛を訴え、一ケ月のうち一、二週間は寝込む状況である。又入社前名古屋市内の会社に就職が決つたことがあつたけれども母親が伊勢市で就職するよう、そして離れて暮さないよう懇願するのでそれをとりやめて三重工場に入社したいきさつもあつたのでこのような事情を説明したが会社はたつた一人の親に対する孝行すら認めようとはしなかつたのである。

(5) 申請人野呂嘉久は昭和三五年三月入社し、製造課蒸熱係であるが、昭和三九年、同四〇年に青年婦人部の幹事、職場委員、職場青年同志会の副会長をつとめた職場における組合の活動家であつたことを嫌悪してか正規の仕事より閉め出してゴミのない個所の掃除をさせたり、他の職場の応援に狩り出されたりしたことは他の申請人と同様である。そして一ケ月四、五〇〇円の減収を強いられたのである。更に他の従業員に対して申請人のことを末端職制を通じて「あいつらはリストに上つているのだから話をするな。」といわせたり、申請人野呂に対して「民青の何かやつているのか」とか「民青で行事があるのか」と尋ねさせたりしているところからみると申請人野呂は会社から民青同盟員であると見られていたことは明らかである。

しかるところ会社は申請人野呂嘉久に対し平塚工場への配置転換を命じて来た。しかし野呂は長男であるため約八反歩の田畑の農作業を手伝わなければならず、母親は低血圧症と神経痛を患つて病弱であり、父親も昭和四〇年一月に入院する程の病気をしてから身体が弱つているので家庭にあつて両親や弟妹の面倒をみなければならない状況にある。又高校卒業の際大阪市内の会社に就職することが決まつたのを、父が第三者を介してまで地元より離れてくれるなと懇願したため、会社に就職したいきさつにあり、このような事情を説明したが会社は右のような事情を全く顧慮しようとしなかつた。

(6) 申請人小林善男は昭和三六年六月入社し、製造課蒸熱係であるが、組合の活動家であることを嫌悪してか希望退職者募集の面接時には正当理由により会社で認められて休んだことを理由にして退職を強要したり、配転の話を持ち出したり、一〇日間以上も正規の職場につかせないで掃除ばかりさせたり、他の職場へ臨時に行かせたりして嫌がらせを行い差別待遇をした、更に守衛をして「民青の会議で遅くなつたのか」といわせたり、支部委員の選挙に立候補したところ民青だという宣伝をしたり、末端職制をして「いい人間だけれども民青だけが云々」といわせたりしていること等からして申請人小林が民青同盟員であると会社は見ていたものである。

しかるところ会社は申請人小林に対し名古屋支店在籍にして四日市三重ヨコハマ勤務を命じて来た。しかし申請人小林は通勤しながら家の農業(田畑六反余り)が手伝えるところということで会社に就職したいきさつや、家庭は母妻との三人暮しで母は神経痛と胃けいれんの持病があり、妻も働いているうえ妊娠中であるから配転に応じられないと説明し、家族の者も四回に亘つて会社に転勤を取り止めるよう懇願したが聞き入れられなかつた。

のみならず当初会社は申請人小林に対し名古屋支店で是非共必要であるということで名古屋支店勤務を強硬に指示したが、最終段階に至つて四日市勤務ということになつた。しかし他に名古屋支店勤務の者を指名しなかつたことからして最初から名古屋支店において申請人小林を必要としていなかつたといえる。

5  配置転換については申請人らは全てタイヤ成型の一部門において働く作業職の労働者として会社と雇傭契約を結んだものであるから申請人中西、同浜口、同小林については従来の職種と全く異る職種への配転であり、労働契約外の配転というべくこの配転命令については本人の同意を必要とするというべく、同意のない右申請人らに対する配置転換命令は無効であるからこれを拒否したことに基づく懲戒解雇の意思表示も無効である。

6  会社は申請人らに対し従業員就業規則第一二条、同第七五条一項、従業員賞罰規則第一六条第二号に該当すると主張するが、申請人らは右賞罰規則第一六条第二号に規定する如き重大な損害を与えていない。

更に申請人中西に対する賞罰規則第一六条第一号についても同人は前条の昇給停止や進級停止を受けていない。出勤停止をうけた後反省の態度が見られないという証拠もない。従つて懲戒規程に該当しないので本件懲戒解雇の意思表示は無効である。

第三、被申請人の主張

一、申請の理由についての認否

1  申請人主張の一の1の事実は認める。

2  同2の事実中申請人中西が伊勢市議会議員であり、議員としての歳費を受けている事実は認めるが、右歳費が生活費に繰入れるべき金員でないとの点は争う。その余の事実は不知。

二、抗弁

1  被申請人は申請人藤原、同辻村、同野呂に対し昭和四〇年一二月二五日から同月三一日まで、申請人中西、同小林に対し同月二四日から同月三一日まで、申請人浜口に対し同月二二日から同月三一日までそれぞれ休職処分に付し、同四一年一月五日から同月八日まで申請人らを出勤停止処分になし、更に同四一年一月八日申請人らに対し従業員賞罰規則第一六条第二号、申請人中西に対しては同規則第一六条第一号をも併加して懲戒解雇する旨の意思表示をした。

2  従つて労働契約は終了した。

三、再抗弁に対する答弁

1  申請人主張の三の1(1)(2)(3)の主張はいずれも争う。

2  同三の2の(1)事実中、被申請人会社の業績が極度に悪化していたこと、昭和四〇年九月二〇日被申請人が申請人主張のような提案をしたこと(但し定期昇給については廃止ではなく一年間の中止である。)申請人ら主張のとおり二四時間ストが行われたこと及び同月二五日大略申請人主張のような協定が結ばれたことは認めるが、その余の事実は否認する。なお希望退職者一、五〇〇名という数字を組合に提案したのは昭和四〇年一〇月一一日であり、同年九月二〇日には全従業員の一割程度といつており、又希望退職者数は一、四〇二名である。

同三の2の(2)の事実中、希望退職者募集の方法として課長、工場長が面接して協力を願つたことは認めるが、その余の事実は全て否認する。なお昭和四〇年下期は毎月操短をしていたので人員過剰を生じたことと、希望退職者募集の結果各職場で人員の不均衡を生じたので暫定的措置として従前の作業からはずれて作業するものが出たのであり又掃除の必要があつて人員を配したのである。

3  同三の3の(1)の事実中、申請人ら主張のとおり転勤希望者募集期間を設けたこと、申請人らが希望退職しなかつたこと申請人らに対し前記協定書に基づいて配置転換に応ずるよう協力を求めたこと、被申請人が申請人らを休職処分、出勤停止処分にしたことは認めるが、その余の事実は否認する。なお転勤希望者募集人数は八四名ではなく約八〇名であつた。又配置転換について労使間で実質的な協議は何ら行われなかつたと主張するが、組合とは事前に協議してその同意を得ているから協定違反でないこというまでもない。

同三の3の(2)の事実はすべて否認する。

4  (1) 同三の4の(1)の事実中、申請人中西がその主張のとおり入社し、そのご組合役員を歴任し(但し昭和二四年七月から同三六年二月までのことは不知)、昭和三八年四月に会社の了解の上で伊勢市議会議員に当選し、(組合の推薦のあつたことは不知)爾来その職にあること、職場は精練混合であつたこと、希望退職者募集配置転換のころ三重工場内の掃除をさせたこと、その主張どおりの転勤を命じたこと、松阪にいけば交替勤務がなくなること伊勢市議会の議長が個人として被申請人に要望して来たこと、配転先の職場が申請人中西が永年従事して来た仕事と異ること、従来の職場における能率が他に劣らなかつたことは認めるがその余の事実は否認する。

排水溝の掃除をさせたのは丁度大雨の降つた昭和四〇年一一月二三日から同月二六日ごろのことで一号バンバリーの横の床面に水が出そうだつたので当時レフアイナーも作業量が減つており、従来第二工場の掃除をしていた者が希望退職したのであいている作業員にさせたもので決して差別待遇をしたものではない。

(2) 同三の4の(2)の事実中、申請人浜口が昭和三六年九月入社し、職場が製造課材料係であつたこと、通路の掃除をさせたこと、希望退職面接期間中に配置転換の話を持ち出したこと、組合支部委員であつたこと、その主張のとおり転勤を命じたこと、長男であることは認めるがその余の事実は否認する。

通路の掃除はチユーバーの異物混入を防ぐために絶対に必要で従来から行つていた正規の仕事であり、申請人浜口だけでなく他の人にもやらせている。

又会社としては支店の販売員を増加して販売力を増すことは絶対に必要なことであり、申請人浜口は人当りも良く、どんな人にも物おじせず気やすく、ものをいうし、タイヤに関する知識も豊富で販売員に適任であると見たのである。家庭の方は父母が農業に従事し、父は「のり」の採取も兼業しているので本人が転勤しても生活に困ることはない。

(3) 同三の4の(3)の事実中、申請人藤原がその主張の時期に入社し、その主張のとおりの仕事を担当していたこと、面接期間中に正規の仕事をさせないで機械の掃除を一日中させたこと、従来から出勤率の悪いことを示し今迄の勤務ぶりを反省するようにいつたこと(但しこの配転問題の時のみにしたことではない。)希望退職の面接中に配置転換の話をしたこと、その主張のとおり転勤を命じたこと、昭和四一年二月に結婚することになつていたこと、は認めるが、その余の事実は否認する。

機械の掃除は操短という条件の中で過剰人員が出て来たため機械保全及び掃除をさせざるを得なかつたのであり、他の人にもさせている。

申請人藤原は祖母、農業及び行商をやつている両親及び郵便局勤務の兄と一緒に暮しており、両親、兄共健在である。本人が結婚するというので平塚で社宅を与える旨伝えてある。

(4) 同三の4の(4)の事実中、申請人辻村がその主張の時期に入社し、その主張のとおりの仕事を担当していたこと通路の掃除をさせたり、他の職場へ応援に行かせたりしたこと、その主張のとおり転勤を命じたこと、家族が母と兄の三人であることは認めるがその余の事実は否認する。

通路の掃除は正規の勤務中にさせる正規の仕事である。他の職場へ応援に行かせたのは需注の減少と希望退職後の各職場の人員の不均衡によるものである。申請人辻村の家庭は中流程度で母と兄が農業をしており、兄が母親の面倒を見られるので平塚にいつても困ることはない。

(5) 同三の4の(5)の事実中、申請人野呂がその主張の時期に入社し、その主張のとおりの仕事を担当していたこと、掃除や他の職場の応援に行かせたこと、その主張のとおり転勤を命じたこと、長男であることは認めるが、その余の事実は否認する。

掃除、他の職場への応援については申請人辻村に対する答弁中に述べた理由と同一である。申請人野呂の父親は健在で長年松阪市民病院に勤め、現在事務課長の職にあり、母は主として農業に従事し、弟は薬科大学を受験することになつており、妹はデザインの仕事に進むといつているもので本人が平塚にいつても経済的に困窮する家庭ではない。

(6) 同三の4の(6)の事実中、申請人小林がその主張の時期に入社し、その主張のとおりの仕事を担当していること、面接において配置転換の話をしたこと、掃除及び他の職場へ応援に行かせたこと、(この理由についても申請人辻村に対する答弁で述べたと同様である)名古屋支店勤務を命じたこと、家族が母、妻との三人暮しであること、妻が働いていること、家族が被申請人会社に三回事情を説明に来たことは認めるがその余の事実は否認する。

5  同三の5については申請人中西、同浜口、同小林が従前三重工場において工員として勤務していたこと、同人らの同意なしに異つた職種へ配転を命じたことは認めるが、同人らの主張は後記のとおり争う。

6  同三の6については後記のとおり争う。

四、解雇の理由及び経緯

1  会社は戦後日本経済界の一般的高度成長、特に自動車業界の目覚しい成長に伴いタイヤ産業に従事する会社も拡大する需要充足のため施設拡充に努力して来たが伸びゆく売上げの反面経営の内容の悪化が次第に漸増し、昭和三五年頃から経常利益は公表利益より絶えず下廻るという状態が続き、有価証券、固定資産の売却、諸引当金の積立額減少等により企業体質の悪化や企業競争力の低下を恐れながらも公表利益の捻出に苦慮し、一時も早く経常利益を建て直すために最善の努力を重ねて来たが、三九年上期に至り会社の努力にも拘らず業界一般の不況、販売競争の激化により遂に経常利益は赤字となり同年下期には株式配当も無配を余儀なくされるに至つた。

そこで会社は昭和四〇年二月代表取締役社長を含む会社首脳陣の更迭を行い面目を一新すると共に新規従業員の採用中止により人員の自然減を期待し、販売増強、原価引下に努めると共に経常経費の大幅の削減のため役員報酬十%減額、部課長職務手当一五%減額、部課長給与の一年間現状維持、硬式野球部の二年間休部、体育情操費の一年間中止、時間外作業の削減、出張旅費の全員二等扱、事務用品の節約、通信費の節約等を強力に実施する一方、他方に於ては昭和三八年三月不良採算部門たるビニール部門を分離独立させ鋭意会社再建に努めたが四〇年上期の決算では以上の努力にも拘らず経常損益一億八、〇〇〇万円の赤字を免れず昭和四〇年七月実績赤字七、〇〇〇万円、同年八月赤字七、七〇〇万円を生じこのままの再建対策の遂行では同年九月以降の販売実績向上も期待しえず四一年上期毎月赤字三、五〇〇万円が予想され経済界の急激な好転も予想する何らの状況もなく同年三月以降の会社再建策は挫折するの止むなきに至つたのである。

会社はこれ以上販売増強による会社再建が不可能である現状に鑑み原価引下げにより急場を切抜け長期計画を立案する以外方法がなく既に会社再建対策として厳重な経常経費の削減を行い更に経常経費を削減することは限界に達しており、原価引下げのための方法は人件費節約による以外に全く合理化の途はない状況に追いこまれたのである。

会社の人件費は従来から同種企業他社に比較して割高であり昭和三八年下期及び昭和三九年上期は人件費分配率(人件費/付加価値額)は五〇%弱、人件費比較率(人件費/売上高)は一三~一四%位であつたが、昭和三九年度下期にきて同種企業六社中最高に近い人件費分配率六〇%、人件費比率一六、五%という数字を示すに至つた。更に昭和四〇年度上期には人件費比率は一七、六%に達した。

ちなみに同業のブリジストン株式会社の昭和三九年度下期における人件費比率は八、七%、東洋ゴム株式会社の同期における人件費比率は一〇、六%であつた。

また会社の売上原価に占める労務費の割合をみても昭和三八年~三九年平均でブリジストンの七割高、東洋ゴムの三、五割高となつており厖大な人件費がコスト高の最大の原因となつていたものである。

2  そこで会社は再建対策を慎重審議し昭和四〇年九月二〇日次の如き内容の会社再建案を全従業員に発表した(乙第四号証)。

(一) 希望退職者募集

会社は昭和四〇年一〇月一日より同年一〇月二〇日迄退職希望者を募集し、右の中から会社が退職を認めた者は昭和四〇年一〇月三一日付を以て退職する。

希望退職者の枠を全従業員の一割程度とする。会社は左記該当者が退職を申出ることを希望する。

〈イ〉 満五〇才以上の男子(昭和四〇年一二月末日現在)

〈ロ〉 満三〇才以上の女子(前同)

〈ハ〉 有夫の女子

〈ニ〉 別に収入源があり退職しても生活に支障のないもの

〈ホ〉 心身に故障のあるもの及び病弱者

〈ヘ〉 懲戒処分を受けたもの

〈ト〉 出勤状態の悪いもの

〈チ〉 会社業績に貢献度の低いもの

退職金は基準退職金の外に特別加算(基準退職金×〇、三+算定基礎額×〇、五)を支給する。

(二) 川崎工場閉鎖

昭和四〇年一一月一五日川崎工場を閉鎖する。従業員は原則として平塚製造所に配置転換する。

(三) 新城工場工業品部門を平塚製造所に吸収する。昭和四一年上期中に実施し、当該部門の従業員は配置転換する。

(四) 其の他

希望退職者募集後必要に応じ従業員の配置転換(職場間及び事業所間)をすること、昭和四一年一月一日より一年間定期昇給及び賃金増額を行わないこと。その他一服時間の廃止等一五項目。

3  会社は右再建案発表と同時にその提案理由を説明し、且つ同日組合と団体交渉をもち再建案の必要性とその具体的内容を詳細に説明したところ組合としては会社の経営困難な事情は充分理解出来るが人員整理を含む再建案には直ちに承服しかねるので他の方法による再建策があるかどうか会社側に再検討を要求し組合はスト権を確立しているが出来る限り紛争をさけ団交の中で解決したい旨を表明した。

会社は九月二〇日全従業員に再建案を提示後直ちに従業員個々に対し会社案の補足説明をなしたことにつき組合から退職を強要したかの如き誤解に基づく申出が九月二二日の団交の席上なされたので会社は決して従業員に個人的面接をし退職を強要するものでないことを明らかにし組合もこれを了承した。その後九月二七日、二八日、二九日、一〇月一日、四日、五日、六日、七日、一一日、一二日、一四日と殆ど連日に亘り団交を開催し再建案の詳細につき説明及び検討し討議を重ねたが組合は再建案中特に退職希望者の範囲を特定していること(前記〈イ〉乃至〈チ〉の八項目)及び退職希望者数が決められていることに対し経済活動の低迷が直ちに人員整理に結びついてくることに対し反対し会社案の撤回を要求したが会社は前記再建策以外に会社の窮状を救う途がなく、希望退職者が会社の期待している員数に達しなければ止むなく指名による帰休を実施する旨を一四日組合に明らかにしたところ、同月一六日組合は会社が会社案を一歩も譲らないならば一九日以降四八時間ストもやむなき旨スト通告に及んだ。会社としては現状においてストが実施されるならば会社の窮状は更に深まり遂には再建を不可能にすることが明らかになつたので一〇月一九日に至り会社は止むなく九月二〇日付再建案を撤回し、改めて会社新提案を組合に通告した。

新提案の内容は九月二〇日付再建案と対比し、

(一) 希望退職者の該当項目及び募集人員枠を除いて全従業員に面接して希望退職者を募ること。

(二) 募集人員枠を除いた結果、指名帰休は実施しない。

(三) 希望退職者募集後必要に応じ従業員の配置転換を行う。但し事業所間の配置転換については事前に本人の意向を聴取し労使協議して行う。

ということであつた。

4  組合は会社の右新提案につき会社の誠意を認め同年一〇月二五日会社と組合との間で会社再建について大略次の通りの協定が成立した(乙第二四号証の一、二)。

(一) 希望退職者募集

会社は従業員全員に面接を行い希望退職者を募る。

(募集方法)退職を希望し会社が認めたもの

(募集期間)昭和四〇年一〇月二六日より同年一一月一三日迄

(退職日)昭和四一年一一月二〇日

(退職金)基準退職金の外に特別加算(基準退職金×〇、三五+算定基礎額×二)を支給する。

(二) 川崎工場閉鎖

昭和四〇年一一月末日川崎工場を閉鎖する、従業員は原則として平塚製作所へ又は本人の了解により他事業所へ配置転換する。配転先の職場については本人の了解により労使協議して行う。

(三) 新城工場工業品部門を平塚製造所へ吸収する。昭和四一年上期中に吸収する。当該部門の従業員は原則として新城工場内部で配置転換する。但し本人の了解による他事業所へ配転することがある。又労使協議の上他事業所へ応援することがある。

(四) その他

〈1〉 希望退職募集後必要に応じて従業員の配置転換を行う。

〈2〉 この配置転換については労使協議するも再編成を円滑且つ速かに行うため労使協力する。

〈3〉 希望退職募集後職制の再編成をするに当つては必要により職分の変更を行う。

(五) ハマ化成提案について

〈1〉 希望退職者募集及び協定書(乙第二四号証の一)第四項の一三項目についてはハマ化成に勤務する横浜ゴム従業員にも適用する。

〈2〉 平塚工場の移転

適当な時期をみて逐次滋賀及び上尾工場に移転する。但し移転する場合は横浜ゴム従業員は原則として横浜ゴム平塚製造所に配置転換をし本人の希望する場合は滋賀工場、上尾工場及び横浜ゴム他事業所へ配置転換する。

5  会社は組合との一〇月二五日付会社再建策についての協定に基き同月二六日以降一一月一三日迄全従業員に個別的に面接し会社再建案の趣旨を説明し退職者を募集したところ一一月一三日迄に一、四〇二名の希望退職者(その内訳は後述の通り)が出たので会社の従業員総数の推移は次の通りとなつた。

昭和四〇年六月三〇日(再建案着案当時)   八、八五三名

昭和四〇年九月二〇日(再建案発表当時)   八、六二一名

昭和四〇年一〇月二六日(退職者募集開始時) 八、五二六名

昭和四〇年一一月二一日(退職者募集終了時) 七、一二四名

希望退職者の内訳は

平塚製造所 五四六名

三重工場  二九三名

三島工場  一七二名

上尾工場  一二四名

新城工場  五六名

川崎工場  一三五名

本社    四〇名

東京支店  一六名

大阪支店  九名

名古屋支店 五名

福岡支店  一名

広島支店  二名

仙台支店  二名

札幌支店  一名

であつた(乙第二六号証)

6  希望退職者募集後必然的に発生する全社的人員のアンバランスを是正するため会社は直ちに配置転換の必要に迫られた。又会社は前記の会社再建案の実施につき企画検討中においてもタイヤ部門の販売量を増加して売上高を増大するため昭和四〇年八月頃から支店販売員の強化及び全国のガソリンスタンドにセールスマンを派遣するため、研究、製造、管理の各部門より約百名を選抜して各支店に応援に出しサービスの向上並びに販売の増強に当らせた結果当初の予定通りの好成績を挙げたので会社としてはこの方針を維持して行くことに決定していたが各支店に応援に派遣されていた人員中原職に復帰しなければならない特別な事情により派遣先から復帰した者約三〇名がありその後任補充を各支店から要求されていた。しかし会社は再建案実施までその補充を待つよう指示していたので希望退職募集期間の終了と共に、早急にその補充に迫られるに至つた。尚タイヤ部門以外においても支店の倉庫業務担当者が二、三年来多数の退職者が続出しており、且つ取扱量も増えているためその倉庫要員の補充の必要があり更に工業品関係の販売先でのアフターサービスを充実させると共に、人心の刷新による作業成績の向上のための人員配置の必要もあつた。

そこで会社は希望退職募集期間終了後直ちに一一月二七日再建計画に伴う協定により中央労使協議会の席上、事業所間の異動、三重から平塚へ七二名、新城から上尾へ二名、川崎から平塚へ四七名、新城一名中央倉庫三名その他販売強化のため営業関係へ二〇ないし三〇名、支店倉庫へ約一七名の配置転換案を示し本件配転が単なる配転ではなく希望退職募集につながる再建のための配転であることを説明し組合の協力を求めたところ組合も配転の理由並びにその必要性を認め会社の申出を了解した(乙第二七号証の一、二)

7  昭和四〇年一一月二九日組合三重支部から会社三重工場に対し配転を円滑に行うため転勤希望者の公募期間を設けてほしい旨の申入があり本社の権田人事部長はこれに対し公募は会社の人事権を冒涜するものであるが配転の円滑を期すという点で今回限りという条件をつけて了解することにした。

会社の三重工場は翌三〇日地方労使協議会において組合三重支部に対し正式に配転の提案をした。

組合三重支部は執行委員会を開催し今回の配転は希望退職後再建のための適正生産を行つていくため必要な配転であり中央にて労使協議したものであるから支部としても協力していくという方針をきめ、右方針は翌一二月一日開催の組合委員会においても了解された。

同年一一月三〇日会社の三重工場は左の如き転勤希望者公募の掲示を出した。

公募期間   昭和四〇年一二月一日から同年一二月四日まで

転勤先及人数 平塚製造所へ約七〇名

各支店へ(合計)約一〇名

しかし右公募に応ずる者が居なかつたため三重工場は同年一二月六日から会社再建のための生産及び販売に対する人員の適正な配置という観点から適材適所及び家族状況を考慮して、同月七日組合三重支部に対し平塚製造所へ七二名、支店(タイヤ関係七名、倉庫関係六名)へ一三名の配転必要人員枠を提示し、同時に三重工場の生産計画に基く三重工場内各職場間の新しい人員枠に従つて各職場に右配転必要人員八五名を割当てた員数を提示したところ、組合三重支部は執行委員会、次いで委員会を開催し、いずれもこれを了承した。

三重工場は適材適所、家庭状況を考慮しながら順次人選を行つて申請人らを含む八五名に対し次々と口頭を以て配置転換の内示を行つた(乙第三一号証)

8  平塚製造所への転勤の内示を受けた七二名の内六七名は配転に応じ昭和四〇年一二月一四日、一七日、二一日、二三日、二五日、二六日、昭和四一年一月五日と逐次平塚製造所へ転勤して行つた。又内一名は内示後依願退職し内一名(申請外兵野進史)は一二月二五日平塚製造所へ出発の予定であつたが痔疾患手術のため手術が終り体が回復してからということになつた。

従つて結局平塚製造所への転勤の内示を受けた七二名の内申請人藤原正樹、同辻村勝二、同野呂嘉久の三名だけが配転を拒否したのである。

支店のタイヤ関係への転勤の内示を受けた七名の内、四名は直ちに応じて昭和四〇年一二月二二日から二八日の間本社で新しい仕事に関する教育を受けて昭和四一年一月五日各支店配属となつた。申請外中川隆生及び同服部真人の二名は最初のうちは配転を拒否していたが昭和四〇年一二月二二日教育出張命令に応じ同月二三日から二八日迄本社で教育を受けて昭和四一年一月五日付で中川隆生は名古屋支店タイヤ課販売要員として服部真人は大阪支店タイヤ課販売要員としてそれぞれ新しい仕事についた従つて支店タイヤ関係への転勤の内示を受けた七名の内申請人浜口嘉直だけがあくまで配転を拒否したのである。

支店倉庫関係への転勤の内示を受けた六名の内配転を拒否した者は申請人中西三郎、同小林善男の二名だけで残り四名は昭和四〇年一二月二四日から二五日迄本社で新しい仕事に関しての教育を受けて(尤も申請外長岡嘉郁己は痔のため病気回復後支店で教育することとし今回の教育に参加しなくてもよいことになつたので実際に教育に参加したのは三名である。)昭和四一年一月五日に各支店配属となつた(乙第二九号証)

9  三重工場は適材適所及び家庭状況等(申請人中西については公職のことも)を十分調査考慮して配転者の人選を行つたのであるが、配転を拒否してきた申請人らについては本社人事部長に会うよう呼んだがこれに従わないので更に本人及びその家族から配転に応ぜられない理由について十分聞いた上他の配転者に比し配転を拒否する理由にはならないと結論し会社再建の趣旨、配転の必要性及び転勤者の人選等について説明し再三に亘つて協力を願つたが申請人らは配転に応じなかつた。

昭和四〇年一二月二〇日三重工場は組合三重支部に対し支店勤務タイヤ販売員に対し同年一二月二二日から二八日迄本社において販売関係教育を行うこと及び支店勤務倉庫要員に対し一二月二四日から二五日迄同じく本社において倉庫関係教育を行うことを連絡し同日申請人浜口嘉直に対し右販売関係教育を受けるため二二日午前九時迄に本社に出張するよう命じた教育出張命令書を渡したが同人は右命令を拒否し命令書を返却して来た。

申請人中西三郎、同小林善男に対しては一二月二一日に右倉庫関係教育のため二四日午前九時迄に本社に出張するよう命じた教育出張命令書を渡したがいずれも右命令を拒否して命令書を返却してきた。

申請人藤原正樹、同辻村勝二に対しては一二月二一日、同野呂嘉久に対しては一二月二二日それぞれ平塚製造所へ転勤のため同所へ一二月二五日午後二時迄に出頭して同所労務課長の指示を受けるよう命じた転勤命令書を渡したがいずれも右命令を拒否し命令書を返却してきた。三重工場は申請人らに対し反省の機会を与えるためそれぞれ再度同じ命令をしたがいずれもこれを拒否したので従業員休職規則第一条八号により申請人浜口嘉直に対しては一二月二二日から、同中西三郎及び同小林善男に対しては一二月二四日から、同藤原正樹、同辻村勝二及び同野呂嘉久に対しては一二月二五日からそれぞれ休職辞令を発令して休職処分を命じたが休職期間中であつても配転命令拒否の非を反省し配転に応ずる者は直ちに休職命令を撤回する旨を附言した。尚いずれも休職辞令の受理を拒んだので各人宛内容証明郵便で郵送した。

10  昭和四〇年一二月二九日三重工場は申請人らを呼出し再考を促したが全員拒否したので同四一年一月一日付で転勤辞令が出ることを言い一月五日に返事を聞くが、その時拒否することがあれば懲戒処分が決定するまで出勤停止とすることを申し伝えた。

昭和四一年一月一日三重工場は申請人ら全員の休職を解き、

申請人中西三郎を名古屋支店タイヤ課詰三重ヨコハマタイヤ販売勤務とする。

申請人浜口嘉直を名古屋支店タイヤ課勤務とする。

申請人小林善男を名古屋支店経理課勤務とする。

申請人辻村勝二を平塚製造所タイヤ工場勤務とする。

申請人藤原正樹を平塚製造所タイヤ工場勤務とする。

申請人野呂嘉久を平塚製造所タイヤ工場勤務とする。

旨の転勤辞令を発した。

一月五日にその返事を申請人らに聞いたが全員拒否したので口頭を以て申請人ら各人に対し懲戒処分が決定するまで出勤停止を命じた。

これ迄再三転勤について説得し便宜をはかつて来たが一月一日付の転勤辞令に従わないのでかゝる転勤拒否行為は従業員就業規則第一二条、第七五条第一項に違反するものとして組合に対し賞罰委員会開催の提案をした。

一月六日に組合三重支部は緊急執行委員会を開催し討議した結果申請人ら六名の配転拒否の理由はそれ迄に配転に応じて転勤していつた多数の人達と比較して殆んど変らず特に考慮せねばならないというものではないし、今回の配転は再建生産に対する人員の適正化であつて組合としても協力して来たのであるから申請人ら六名に対し現状を認識し生活を守るため転勤に応じる様勧告を行うが、若し勧告に従わない場合は今回の配転を不当とする内容はないから賞罰委員会に臨み会社提案を受けるという決定をしたと聞いている。

右執行委員会の考え方につき翌七日組合三重支部は緊急委員会を開催し賛否を問うた結果賛成三〇、保留一、反対〇にて賞罰委員会に臨むことに決定したと聞いている。一月八日に組合三重支部は申請人ら六名に転勤の勧告を行つたが全員不当配転だと主張するので物別れとなつたと聞いている。

同日賞罰委員会を開催し全員一致にて申請人らに対し従業員就業規則第一二条、第七五条一項従業員賞罰規則第一六条第二号に該当するとして申請人中西三郎に対しては従業員賞罰規則第一六条第一号をも併合して懲戒解雇とすることに決定した(乙第三四号証の三)

そこで同日申請人ら六名を呼び出し三重工場長より右条文により懲戒解雇とする旨申し渡したが六名共懲戒解雇辞令の受理を拒否したので翌九日辞令を内容証明郵便にて申請人らに送達した。

11  (1) 申請人らは総てタイヤ成型の一部門において働く作業職の労働者として会社と雇傭契約を結んだものであるから申請人中西、浜口、小林については従来の職種と全く異る職種への配置転換であり労働契約外の配転命令というべきだから、この配転命令については本人の同意を要するという主張をするが申請人らは作業職として会社と雇傭契約を結んだのではない。申請人らと会社との間の雇傭契約では「横浜ゴム株式会社の従業員とする」というだけで勿論作業職とは特定していない。普通労働契約をする場合職種まで定めて労働契約をすることはなく〇〇株式会社の従業員となるというだけの合意しかないのが普通であつて、矢張り企業の中では適材適所主義で才能のある者を十分にその才能を発揮できるようなポジシヨンにつかせていこうという要請が強いので採用の時には職種まで定めず必要に応じて配置転換を行い適材を適所にすえるのは会社の人事権の範囲内のことと考えるべきである。

配転は人事権の範囲内としておいて不当労働行為、差別待遇などの具体的な事由があればその点で配転命令が有効か無効かを判断すれば足ることであるし、そうした考え方の方が弾力性があり正しいというべきである。

申請人らは昭和四二年六月一六日東京地裁の判決を引用するが本件の場合とは全く具体的事情が異り右判決の理論は本件には通用しない。本件の申請人らの場合作業職ということは労働契約の内容になつていない。即ち右東京地裁の判決では養成工として三年間現場作業養成課程を終了して始めて作業員となつたということ及び就業規則において「事務員、技術員、作業員及び警備員」という職種の別が定めてあつたということを前提として始めて作業員とする暗黙の合意を認定しているのであるが、本件申請人らの場合は養成工という課程を経ないで「横浜ゴム株式会社の従業員」として採用されており、更に就業規則には職種の別の定めはないからいかにしても暗黙の合意は認められないのである。

(2) 仮に作業職ということが労働契約の内容となつているとしても以下に述べる理由により申請人中西、浜口、小林に対する本件配転命令は有効である。

作業職から販売、倉庫業務への配転といつても右東京地裁の判決にある如き作業職から人事という様な極端に仕事の内容が違うものではなく、矢張りタイヤを扱い今迄のタイヤに関する知識が役立つのであつて、それだからこそ短期間の教育だけで任地へ行つても仕事が出来るのである。従来から販売倉庫は販売、倉庫要員として特別に雇入れるばかりではなく各工場から販売員、倉庫要員を拠出するという方法でやつてきたのであるからその従来の配転の慣行からいつても当然有効な配転命令である。

「横浜ゴム」という企業の重大な危機の中で会社を再建させるには人員合理化及びこれに伴う配置転換が絶対必要であつたということについては再三述べてきたところであり希望退職募集終了後の配置転換において各工場間の人員のアンバランスを是正するための配置転換のみならず販売増強のために販売員、倉庫要員を各工場から拠出する必要があつたことについては前叙の通りである。

そしてこの様な企業再建のための配置転換の必要性から申請人らに配転を命じたのであるから、本件配転命令は有効である。

12  (1) 申請人らは懲戒解雇の規定に該当する。

申請人らは総て従業員就業規則第一二条、第七五条一項、従業員賞罰規則第一六条第二号に該当し申請人中西三郎は更に従業員賞罰規則第一六条第一号にも該当するのである(乙第三四号証の一乃至三、乙第二号証)。

申請人らは従業員賞罰規則第一六条第二号に規定する重大な損害を会社に与えている。

即ち、申請人らが配転を拒否したので配転計画全体にそごをきたし、その分だけ改めて配転計画を練り直して補充しなければならなかつた。

配転の計画は配転後の生産販売両面から全体的にバランスをとつて考えられたことなので、その一部で配転拒否が起つてバランスが崩れると、その全体の再建計画に及ぼす影響は大きく会社の蒙る損害は重大なのである。

具体的には配転を拒否した申請人らの代りに生産販売両面に亘る再建計画全体にそごをきたしたため、改めて配転計画を練つて補充配転を行なわねばならなかつたこと(乙第四六号証)補充配転が行なわれる迄の配転の完了のおくれによる教育計画のおくれ、補充人員のため態々又教育をせねばならなかつたこと、補充の販売員派遣がおくれたための販売面の減少、特に倉庫要員の派遣のおくれは倉庫の場合倉庫要員がいないと外註しなければならないことにより大きな損害を蒙つたこと及び在庫管理が能力的に不足して支障を来たしたことなどであり全体的にみてその損害は甚大なものである。

尚一言すると配転拒否を認めた場合は既に会社再建のため配転に応じていつた多数の人達へ影響を及ぼし配転計画自体が全面的に崩れたであろうことは想像にかたくない。

(2) 申請人中西三郎は従業員賞罰規則第一六条第一号にも該当する。

申請人中西三郎はこの点につき、賞罰規則第一六条第一号に規定する「前条」の昇給停止や進級停止を受けていないと主張しているが、この「前条」というのは「一五条」ではなく「一四条」をさしているのである。即ち現在の「一五条」という規定は昭和三六年六月一日以前にはなく現在の「一四条」の次にすぐ「一六条」がきていたのであるが、同日の改正により「一四条の二」として現在の「一五条」が新設され、その後昭和三八年二月一日の改正により「一四条の二」は条文の内容はそのまゝで「一五条」と改められて今日に至つたものであるが、この改正のときに「一六条一号」に規定する「前条」というのを「一四条」と訂正することをうつかり忘れてしまつて今日に至つたものである。中西三郎は昭和三九年七月に第一〇回原水爆禁止世界大会の代表派遣の寄附要請行為に関して従業員就業規則第一六条に違反し、同年九月九日に賞罰委員会において従業員賞罰規則第一四条第一号に該当するということで譴責及び三日間の出勤停止に処せられた。

しかるに今回又本件配転命令を拒否して会社に重大な損害を与えたので「一四条により懲戒を受けても反省の態度がみられない者」として賞罰委員会において従業員賞罰規則第一六条一号に該当するとされたのである。

第四、(立証省略)

理由

一、申請人中西三郎が昭和二三年三月に、同浜口嘉直が昭和三六年九月に同藤原正樹が昭和三六年五月に、同辻村勝二同野呂嘉久が昭和三五年三月に同小林善男が昭和三六年六月に自動車用タイヤ等ゴム製品の製造販売を業とする会社に雇われ、会社の三重工場でそれぞれ工員として労務を提供して来たこと会社が申請人藤原、同辻村、同野呂に対し昭和四〇年一二月二五日から同月三一日まで同中西、同小林に対し同月二四日から同月三一日まで、同浜口に対し同月二二日から同月三一日までそれぞれ休職処分に、同四一年一月五日から同月八日まで出勤停止処分に付し、更に昭和四一年一月八日申請人らに対し従業員賞罰規則第一六条第二号、申請人中西に対しては同規則第一六条第一号をも併加して懲戒解雇する旨の意思表示をなしたことは当事者間に争いがない。

二、申請人らは右懲戒解雇処分は労使間の協定違反の配置転換命令に基因するもので無効であると主張するので先ずこの点につき判断する。

成立に争いのない疏乙第二四号証の一、二証人権田良三の証言により成立の認められる疏乙第三、第四号証及び証人権田良三の証言を綜合すると、会社は昭和三五年以降極度の業績悪化を来し、同三九年下期には株式配当も無配を余儀なくされ、同四〇年二月には社長を含む会社首脳陣の更迭を行い、経常経費の削減等を行つたが、それでは業績向上を図ることが出来なかつたので昭和四〇年九月二〇日会社主張のような再建案(疏乙第四号証)を発表した。(この点については当事者間に争いがない。)そうして組合と何回にも亘り団体交渉を持つたが双方の主張は平行線をたどるのみでまとまらず、遂に組合は同年一〇月一五日右提案撤回を要求して二四時間ストライキを行い、結局同月二五日会社と組合との間で会社主張のような協定(疏乙第二四号証の一)確認(同号証の二)が成立したことが一応認められる。

証人権田良三の証言により成立の認められる疏乙第二七号証の一弁論の全趣旨により成立の認められる疏乙第三三号証及び証人権田良三、同北村綾夫、同大戸正幸の各証言を綜合すると、会社は右の協定に基づき希望退職者を募集した結果、平塚製造所において五四六名三重工場において二九〇余名等会社全体で一四〇〇余名の希望退職者が出て、各事業所および各職場間に配置人員の不均衡を生じ、それ故生産の円滑化、販売増強のためには、従業員の配置転換の必要を生じた。そこで会社は右協定および確認書に基づいて更に昭和四〇年一一月二七日の第六九回中央労使協議会において三重工場から平塚工場へ七二名、全体を通じて営業関係へ二〇ないし三〇名、支店倉庫へ約一七名を配転する旨の事業所間の配転計画を提示し、組合の了解を得(疏乙第二七号証の一)更に三重工場では一一月三〇日の地方労使協議会において諮つたところ、組合三重支部から公募期間を設けて一般公募することの申入れがあり、偶々出張にて居合わせた権田良三人事部長が、配置転換について公募方法によることは本来会社の人事権を侵すものであつて、承認できないことではあるが、この配置転換は会社再建のための特別な場合である点を重視して、この配置転換に限り特に承認することとしたので、三重工場においては、同年一二月一日から四日間に亘り平塚工場への配転作業員七二名、支店販売関係への配転者七名、支店倉庫への配転者六名の公募をしたが、応募者は無に等しかつた。そこで三重工場ではやむをえず右の配転者の選出をまず各職場別に割当て組合三重支部の了解を得、配転先の職種、地理的条件に適した体力、学歴、知識、経験年数、協調性、社交性、更には家庭事情等を綜合考慮して人選を行い一二月七日ごろには組合三重支部に配転する者の氏名を通知したことが一応認められる。

ところで証人北村綾夫、同大戸正幸、同権田良三の各証言を綜合すると会社が昭和四〇年九月二〇日再建案を発表後翌二一日から三重工場においても工場長、次長、課長、課長代理が手分けし大体二人が組になつて従業員と個個面接をはじめ再建案の趣旨の補足説明をなし再建への協力を求めたこと、翌二二日支部団交が持たれ面接において強制強要がないようにして貰いたいとの決議がなされたがそのごも個々面接が行われ、更に会社と組合との前記協定成立後希望退職募集期間中個々面接が行われその回数は人によつて異なり少い人は一回多い人は三回程度であることその間にも面接が強制、強要にわたるとのことで支部団交が二三回持たれたがその具体例の指摘はなかつたこと、希望退職募集の最終日の二日前である一一月一一日に申請人らを含む今後の面接予定者の氏名を従業員の前で発表したこと、最終的には会社全体で一、四〇〇名余の希望退職者があつたことが疏明され、右認定を動かすに足りる疏明はない。

右事実に徴すると配置転換については三重工場においては組合支部と協議し、その承認を得たうえ行つたものであり、又面接の回数も必ずしも従業員一様ではなく中には三回程度に亘り退職して協力することを求められた従業員がいたことは窺知されないでもないが強制的な退職の強要が行われた疏明はなく一一月一一日に面接予定者の発表をした会社側の意図は必ずしも明らかではないが退職を強要するというまでのものでもないから申請人らのこの点に関する主張は採用出来ない。

三、次に申請人らは本件懲戒処分は憲法第一四条、労働基準法第三条に違反するのみならず公序良俗にも反し且つ不当労働行為として無効な配置転換命令を拒否したことによるものであるから無効であると主張する。

1  申請人らに対し三重工場内の掃除をさせたり、他の職場に応援に行かせたことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない疏甲第八ないし第一三号証申請人ら本人尋問の結果(各一部)及び弁論の全趣旨により成立の認められる申請人らの陳述書(小林については二通)並びに成立に争いのない疏乙第三五号証の一ないし五、証人菊地規、同中村清の証言により成立の認められる疏乙第四二号証及び疏乙第四三号証と証人北村綾夫、同大戸正幸の各証言の結果を綜合すると希望退職募集の結果第二工場の食堂、風呂場の清掃を担当していたものが退職したので第一工場の清掃担当者がその分を受け持つことになり、第一工場の掃除をする者に欠けることになつたので各自の持場はそれぞれ清掃に当り、工場内のメイン通路は作業量の少ない者に担当させたこと当時三重工場の生産量は一〇トン減の四五トン程度であつたこと、ゴム工場においてはその仕事の性質上掃除は重要視されていること、会社が生産を阻害するものであるとして会社内の民青共産党と目される者の動きに注目していたが、申請人らがそれに属すると疑いを持つていたことは認められるとしてもこれを明確に認識しそのことの故に申請人らの動静を特に注視していたとはいえないことが一応認められ、右認定に反する申請人ら陳述書、証人村田統、同西村栄治及び申請人ら本人尋問の結果は前掲証拠に比し措信しない。

2  そこで次に申請人ら各自に対する個別的な差別待遇の有無、家庭事情等につき検討するに

(1)  申請人中西三郎が昭和二三年三月三重工場に入社し昭和三六年三月から同三八年五月まで(昭和二四年七月から同三六年二月までについても申請人中西三郎本人尋問の結果によれば組合役員であつたことが疏明される)横浜ゴム労働組合三重支部において支部書記長、支部長を含めて組合役員を歴任し、昭和三八年四月会社の了解の上で伊勢市議会議員に立候補し当選し以来その地位にあること、職場は精練課混合係であること、希望退職者募集、配置転換のころ三重工場内の掃除及び排水溝の掃除をさせたこと、三重ヨコハマ松阪倉庫勤務を命じたこと、松阪にいけば交替勤務がなくなること従来の職場における能率が他の人に劣らなかつたことは当事者間に争いがなく、証人北村綾夫の証言によると申請人中西については同人の属する製造課課長代理の北村綾夫が同人の事務能力、健康状態もよく、協調性もあり、松阪であれば公職にも余り差支えないとして推薦したこと、三重ヨコハマ松阪倉庫までの通勤時間は約三〇分であることが一応認められ、右認定に反する申請人中西三郎の陳述書及び証人西村栄治の証言、申請人中西三郎本人尋問の結果は措信しない。

(2)  申請人浜口嘉直が昭和三六年九月入社し、製造課材料係に属し、組合支部委員であつたこと、工場内の通路の掃除をさせたこと、名古屋支店勤務の販売員を命じたこと、同人が長男であることは当事者間に争いがなく、証人菊地規の証言により成立の認められる疏乙第四二号証によると申請人浜口は明朗でものおじしない性質で頭も良く応答もてきぱきしているので販売に向いており、両親も元気で農、漁業及び海苔の採取に従事しており、転勤しても実家の生活に支障はないとして名古屋支店勤務の販売員に選定したことが一応認められ、右認定に反する申請人浜口嘉直本人尋問の結果及び同申請人の陳述書は措信しない。

(3)  申請人藤原正樹が昭和三六年五月入社し、成型係大型ビルダー担当であること、面接期間中に正規の仕事をさせないで機械の掃除を一日中させたこと、従来から出勤率の悪いことを示し、勤務について注意を与えたこと、平塚工場への配転を命じたこと、昭和四一年二月に結婚することになつていたことは当事者間に争いがなく、申請人藤原本人尋問の結果によると同人が職場における青年同志会の幹事であつたことが一応認められるが前掲疏乙第四二号証によると平塚工場でタイヤビルダーが不足していること申請人藤原の両親共健在で兄は郵便局に勤務のかたわら農業に従事し、祖母の面倒は両親がみているとして平塚工場への配転を命じたことが一応認められ右認定に反する申請人藤原正樹本人尋問の結果及び同申請人の陳述書は措信しない。

(4)  申請人辻村勝二が昭和三五年三月入社し、成型係であること、通路の掃除をさせたり、他の職場へ応援に行かせたりしたこと、平塚工場への配転を命じこと、家族が母と兄の三人であることは当事者間に争いがなく、申請人辻村本人尋問の結果によると同人が職場における青年同志会の幹事であつたこと、三重工場に入社前名古屋市内に就職が一旦定まつたが母親の懇願により三重工場に入社したことが一応認められるが、前掲疏乙第四二号証によると平塚工場でビルダーが不足していること本人が健康であり、兄が同居して農業をしているので母の面倒が見られるとして平塚工場への配転を命じたことが一応認められ、右認定に反する申請人辻村勝二本人尋問の結果及び同申請人の陳述書は措信しない。

(5)  申請人野呂嘉久が昭和三五年三月入社し、製造課蒸熱係であること、掃除や他の職場の応援に行かせたこと、平塚工場への配転を命じたこと、長男であること、は当事者間に争いがなく、申請人野呂本人尋問の結果によると同人が職場委員、職場青年同志会の副会長をつとめたこと、三重工場に入社前大阪市内で就職することが定まつていたが父の懇請により入社したいきさつのあることが一応認められるが、前掲疏乙第四二号証によると当時父は松阪市民病院の庶務課長をし、水田の耕作は母が主としてやつており、母が昭和四〇年六月農作業中つまずいて倒れ、医師にかかつたことはあるが、そのごは健康で農業に従事しており、経済的に恵まれた家庭環境にあるとして平塚工場への配転を命じたことが一応認められ、右認定に反する申請人野呂嘉久本人尋問の結果及び同申請人の陳述書は措信しない。

(6)  申請人小林善男が昭和三六年六月入社し、製造課蒸熱係であること、掃除及び他の職場へ応援に行かせたこと、名古屋支店勤務を命じたこと、家族が母、妻との三人暮しであること、妻が働いていることは当事者間に争いがなく、前掲疏乙第四二号証及び証人大戸正幸の証言によると支店倉庫関係の要員が不足していること、申請人小林は健康で口も達者、頭の回転も良いので倉庫業務に適していること組合三重支部の申し入れにより通勤可能な四日市三重ヨコハマに勤務出来るようとりはからうことを工場長が組合に約束し、申請人小林にもそのことは伝えられていることが一応認められ、右認定に反する申請人小林善男本人尋問の結果及び同申請人の陳述書(二通)は措信しない。

以上認定事実に徴すると会社としては会社内の民青、共産党に属すると思われる者の動向に留意して来たことは認められるが申請人らがそれに属するという認識の下に、その差別待遇をする意図を持つていたとまでは断言しがたく、又工場内の通路の掃除や他の職場への応援も申請人らだけを対象としたとする疏明はない。申請人中西を除く各人の家庭事情は先に認定したとおりであり弁論の全趣旨により成立の認められる疏乙第三一号証によると平塚工場等へ配転になつた者達の家庭事情に比し、特に配転に応じ難い事情があつたとも認められない。又申請人中西、同浜口、同小林については従来の職種と異つた販売員或いは倉庫係を命じたことについて同人らが長年工員として勤務して来たものであることを考えると同人らの適格性はともかくその配置転換に問題がないではなく、又申請人中西については会社の了解の上で伊勢市議会議員になつていること、松阪へいけば交替勤務もなく通勤に三〇分程度を要し、従前よりは条件の悪くなることが考えられるが先に認定した会社の危急存亡の時期にあつたこと配置転換をせざるを得なくなつた経緯、更には配置転換については先に認定したとおり昭和四〇年一一月二七日の中央労使協議会で三重工場から平塚工場へ七二名全体を通じて営業関係へ二〇ないし三〇名、支店倉庫へ約一七名を配転することについて組合の了解を得たので三重工場においても配転に関し、組合三重支部の承認をえたのち平塚工場及び支店の販売、倉庫関係について体力、学歴、知識経験年数、協調性、社交性の配転基準を考慮して平塚へ七二名、支店販売七名、支店倉庫へ六名合計八五名を人選したこと申請人らを除くその余の者は配転に応じたこと、を考えると申請人らに対する配置転換命令が特に差別待遇、不当労働行為であるとまで言い切れない本件にあつては止むを得ない処置であつたといわざるを得ない。

従つてこの点に関する申請人らの主張はいずれも採用出来ない。

四、次に申請人中西、同浜口、同小林については作業員を本人らの同意なしに販売員又は倉庫勤務に変更することは許されないと主張するのでこの点につき判断するに、右申請人らがその同意なしに三重工場の工員から販売、倉庫業務に配転を命ぜられたことについては当事者間に争いがない。

成立に争いのない疏乙第二号証前掲疏乙第四二号証及び証人北村綾夫、同大戸正幸の証言を綜合すると会社の就業規則には職種の別の定めはなく右申請人らは横浜ゴム株式会社の従業員として採用されたこと、工員から支店又は傍係会社の販売、倉庫業務への配転によつて仕事の内容は異るとしてもタイヤを扱うことに変りはないので従前のタイヤに関する知識が役立ち短期間の再教育を施せば仕事が出来るようになること、再び元の職種に戻ることが不可能ではないことが一応認められ、右認定に反する疏明はない。

右事実に徴すると右申請人らは終始工員として働く趣旨で採用されたとも言い難く、職種に関する暗黙の合意も認め難く再び元の職場への復帰も可能であることを考え合せると右申請人らの同意なくしてなされた配転命令も労働契約外への配転であるから無効であるとは解されない。この点に関する右申請人らの主張も採用出来ない。

五、最後に申請人らは懲戒規程に該当するような行為をしていないからそれに該当するとした懲戒解雇の意思表示は無効であると主張するので判断する。

会社が申請人らに対し従業員賞罰規則第一六条第二号申請人中西に対し同規則第一六条第一号をも併加して懲戒解雇する旨の意思表示をしたことは当事者間に争いがない。申請人らは右規則第一六条第二号にいう「重大な損害」を会社に与えていないと主張するが成立に争いのない疏乙第二号証、証人大戸正幸の証言により成立の認められる疏乙第三四号証の一ないし三及び証人権田良三、同大戸正幸の証言を綜合すると申請人らが配転を拒否したことにより配転計画にそごを来たし、その補充をしなければならなかつたこと昭和四一年一月八日開かれた賞罰委員会において申請人らの行為は就業規則第一二条、第七五条に違反し、申請人らの右就業規則違反が賞罰規則第一四条ではなく第一六条二号に該当するとしたのは本件の配転は企業再建のための業務を円滑に行う必要上行われたものであつて転勤命令に従わなかつたことにより業務の運営を阻害した、業務運営の阻害は経営上重大な損害であるとして全員一致で懲戒解雇にしたことが一応認められ、右認定に反する申請人ら本人尋問の結果及び申請人らの陳述書は措信しない。

右事実に徴すると会社の蒙つた重大な損害については具体的な金額は見当らないが会社の危急存亡に関する重大な時期に正当の事由なく企業再建のための配転を拒否し、業務運営を阻害したことは「重大な損害」を与えたというべきである。

なお申請人中西は従業員賞罰規則第一六条第一号に規定する「前条」の昇給停止や進級停止を受けていないと主張するので判断するに成立に争いのない疏乙第五〇号証の一ないし三証人金子達造の証言申請人中西三郎の本人尋問の結果(一部)によると申請人中西は昭和三九年七月に第一〇回原水爆禁止世界大会の代表派遣の寄附要請行為に関して同年九月九日賞罰委員会において賞罰規則第一四条第一号に該当するということで譴責及び三日間の出勤停止に処せられたこと、賞罰規則第一六条第一号にいう「前条」というのは従前一五条が欠けていたので「一四条」を指すものであつたところ改正の際一五条が新設されたので前条を一四条と改めるべきところ手違いによりそのままになつたことが一応認められ右認定に反する申請人中西三郎本人尋問の結果及び同人の陳述書は措信しない。そうだとすると申請人中西については賞罰規則第一六条第一号に該当するとしたことには理由がある。

従つて右の点に関する申請人中西の主張も採用出来ない。

六、してみると申請人らの主張はいずれも理由がないのでこれを却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法第八九条第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 後藤文雄 杉山忠雄 青山高一)

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